ところがイラク情勢やパレスチナ問題などで、たびたびその名前がテレビやラジオなどで耳にするので、この国に対して怖いイメージをもつ人も多い。
1ディナール=約178円 (2007年1月25日~29日当時)
現在のレート
自分の好きなおかずを選んで皿に盛ってもらえるので便利である。
ちなみにヨルダンの料理に使われるお肉は羊がメインである。このレストランはペトラゲートホテルの前の坂を下って一つ目の角を曲がった場所にある
。
炎に包まれた国ヨルダンの巻
エジプトのダハブを朝9時に出発し、そこからセルビス(ワゴンタクシー)で砂漠の道を走り続け約1時間半でダハブの隣町、ヌエバに到着した。
運賃は一人15ポンド(約308円)だった。
この後、僕らはヌエバの港から紅海をフェリーで北上し、ヨルダンのアカバに向かう予定だ。
紅海は、地球の裂け目と言われ、アフリカプレートとアラビアプレートが、遠い昔に裂けてできた内海である。
この港を出れば約3週間旅してきたエジプトともおさらばである。
フェリー乗り場には、男達が大きな荷物をかついで、長蛇の列に並んでいた。
出稼ぎにでも行くのだろうか……。
僕らも出国手続きを終わらせ、その列の後ろに並んだ。
そして汽笛と共にフェリーは出発した。
雲ひとつなく晴れ渡った空の下にある深く青い海が、穏やかな表情で僕らを船ごと包み込んで移動させてくれているような気がした。
オラは海の向こうにそのうち現れる新たな世界への期待に胸を膨らましながら、船の向かう先を眺めていた。
ダハブで知り合った日本人旅行者の女の子からヌエバの海にはイルカがいると聞いていたので、期待して甲板から海を眺めていたが、残念ながら確認することはできなかった。
船は、約6時間の航海の末、ヨルダンのアカバ港に到着した。
ヨルダンへの入国手続きは船内で行われ、船から降りる間際にパスポートが返却された。
僕らがアカバ港に降り立った頃には辺りは薄暗くなっていた。
ヨルダンは、エジプトと同じイスラム圏であるためか、街の造りにさほど変化は感じられなかったが、街の女性達はアバーヤといわれる全身黒の布で素肌がほとんど見えない様な衣装を纏い、男達は、頭にカフィーヤという赤い縞模様の布を巻き、イガールという二重の輪でそれを押さえた装いで街を歩いていた。
赤い縞模様の布を頭に覆う格好はアラブの遊牧民族(ベドウィン)の伝統的なスタイルであり、街の全ての人が、そういう格好をしている訳ではないが、このように国によって衣装の違いがあるのを感じさせられた。
この日はアカバの港街で宿を取ることに決めていたオラは、みんなに荷物番を頼み、寝床を確保するため、ようちゃんと2人で街を練り歩いた。
ガイドブックに載っている宿やそれ以外も片っ端から探してみたが、この日は休日前という事もあり、アカバの安宿はどこも満室で、空きが合っても1~2名程度しかなかった。
8名全員が泊まれる宿を探すのは容易ではなかったが、宿が見つかるまで諦めることはできない。
最悪、別々の宿に泊まることも考えたが、できるだけ同じ宿の方が安全だし、今後の動きも取りやすいと思い、僕らは細い路地裏のあまり目立たない安宿もくまなく探し回った。
そしてとうとう全員が泊まれる宿を確保する事ができた。『レッドシーホテル』一人1泊6ディナール(約1068円)。
エジプトに比べるといきなり物価が高くなったが、この辺りでは他の安宿と比べても安い方だし、まぁまぁ小奇麗なホテルであった。
ヨルダンに入国した日の翌日、僕らは朝一番のバスでペトラ遺跡があるワディー・ムーサの街に移動することにした。アカバのバス停を8時半に出発し、約2時間半でワディー・ムーサの街に到着した。
ワディー・ムーサ{ワディーは谷・ムーサはモーゼのこと(モーゼは、旧約聖書に出てくるイスラエル民族の指導者)}とはモーセの谷の意味でその昔、この地でモーゼが不平を訴えるイスラエル民に対して岩を杖でたたいて泉を湧かせたという伝説によるものだそうだ。
そしてペトラとはギリシャ語で岩を表し、遺跡の多くは岩山を掘って造ってあるらしい。
オラはペトラ遺跡に行ったことのある知り合いからの言葉を思い出した。
ペトラ遺跡は朝、昼、夕方と見る時間帯によって岩肌の色が変わるそうだ。
そして遺跡の規模と風貌は、見た人を必ず感動させるという。そんな今までとは違った体験に僕らは胸を躍らせていた。
ガイドブックで見つけた宿『ペトラゲートホテル』一人1泊3.5ディナール(約623円)のフロントに入ると宿の主人がギターの様な現地の楽器を弾いて出迎えてくれた。
オラはエジプトで買ったタブラ、ようちゃんはインドから持ち歩いているジャンベを取り出して宿の主人とセッションして楽しんだ。
宿の主人は、もういいよと思うぐらい、一生懸命僕らに音楽を弾いて聴かせ、この国のことについても色々語ってくれた。
オラは、お客に対してえらく熱心なおじさんやなぁと思った。自分の国への愛国心が強く、歓迎の意を深く感じられるとてもいい主人だ。
僕らが、荷物をその場に置いたまま、宿の談話室で音楽や会話を楽しんでいると、いきなりアイスランド人のムームが、宿の主人に部屋の鍵をもらい、一目散に階段を駆け上がっていった。
いったいどうしたのだろう?
僕らも荷物を置きに自分達の部屋に向かうと、部屋の中からプーンと異臭が漂ってきた。
オラは思わず鼻を押さえた。どうやらムームは腹を壊しているらしい。
しかも部屋のトイレは中こそは見えないもののトイレに仕切りのドアが付いていないようだ。
オラとようちゃんとだいたは、部屋の窓を全開にした。あまりにも臭かったので、僕らは部屋でゆっくりくつろぐこともできなかった。
そして大をもよおした時には、部屋の外にある廊下側のトイレに行くというルールを決めた。
異臭騒動が収まった頃、みんなでペトラ遺跡観光の予行演習的な存在であるスモールペトラを見に行くことにした。
宿の主人にセルビスを呼んでもらい、スモールペトラまでドライブを楽しんだ。
荒々しい岩肌の山並みを横目に、綺麗に整備されたアスファルトの道をひたすら走ると、岩の陰で遊牧民達が、ピクニックをしている光景が見られる。
砂漠のところどころに屹立する赤い岩山が、まるで燃えさかる炎のようだった。
ようちゃんは「オレ、この旅で一番好きな場所かも……」とその絶景を見ながら言っていた。
10分ほどでスモールペトラにたどり着くが、遺跡の辺りは閑散としていた。
あまりメジャーではないのか、観光客は少なく、ほとんど貸し切り状態であった。
僕らは、遺跡の入り口から反対側の裏山にも足を運んでみた。
するとそこには、かつてこの地に住んでいた民族が岩山を掘りぬいて造った居住地らしき横穴を発見した。
ふと、ようちゃんが何か落ちているのに気づき、拾い上げ、大事そうに持ち歩いていた。みかりんは、ようちゃんが何を持っているのかが気になり、顔を近づけ覗き込んだ。
「キャー!! なに持ってんの!?」
それは、わら人形の様な、布で作った人形であった。砂で汚れた人形の顔には手書きで顔も書いてあり、確かに不気味である。
「呪われるかも知れないから、そんなの早く捨てなさい!!」みかりんが、困った顔でようちゃんに言った。
ようちゃんは、「仕方ないなぁ」と言い、その人形を拾った方向に投げ捨てた。
しばらくすると、兄弟と思われる2人の子ども達が、遊んで!! と言わんばかりに僕らの方に近づいてきた。
「キャー!!」みかりんが、またまた叫んだ。
その子どもの手を見るとさっきようちゃんが投げ捨てた人形を握り締めているではないか……。
いや、よく見ると少し違っていた。どうやらこの辺りの子ども達は、みんな布切れで作った人形で遊んでいるようである。
しかもイスラム教徒の女性が身に付ける黒いマント「アバーヤ」を被っている人形なので余計にみかりんには不気味に感じたのであろう……。
そして、砂遊びなどしている間に出発時間が近づいてきたので、子ども達とはその場で別れ、セルビスの停まっている待ち合わせ場所に戻った。
スモールペトラは観光客が少なく入場料も要らないようなマイナーな場所なので、僕らはたいした期待はしていなかった。
しかし規模こそ小さいが、岩山を削って作った神殿や生活観の感じられる洞穴の居住地も見られたので思ったよりもみんなは満足している様子だった。
スモールペトラの帰りにセルビスの運転手の兄ちゃんが、夕日の絶景ポイントへ連れて行ってくれたが、着いた頃には既に夕日は沈んでおり、太陽が岩山に隠れる瞬間は見られなかった。
しかし、夕日の沈んだ後の空はまだオレンジ色の光を残し、山肌を赤く染めていた。なんとも言えない幻想的な光景である。
ヨルダンは、その土地に暮らす人々の性格も、夕日に染まる山並みも真っ赤な炎に包まれているような情熱的な国の印象だった。
しかしイスラエルの入国履歴があると、エジプトとヨルダン以外の中東諸国、その他多数の国への入国が困難になる。
そのため僕らは、中東に入るための国境越えを、フェリーを利用し紅海を渡ってヨルダンに入国した。
エジプトのヌエバ港からヨルダンのアカバ港へ向かうフェリーは2種類である。普通便45米ドル、所要時間は3~6時間。高速船59米ドル、所要時間は約1時間。入国手続きは船内で行われる。
部屋の入り口やベッドからは見えない位置にあるのだが、仕切りがないため臭くてたまらない……。
同室の人がいる場合、ここのトイレを使うのは迷惑になるし、勇気がいるだろう。
僕らが泊まった部屋のトイレは仕切りが少なく、音も臭いも筒抜けだった。
お手洗いは廊下側にもあったので、今後、部屋のトイレは使わないことにした。