自己紹介




伊里恒一(いざぽん)のプロフィール

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株式会社Zedd (アウトドアクラブNuts・リバーサイドグランピングNuts)代表取締役社長

所持資格
  • NZRA(ニュージーランド政府公認リバーレスキュー講習資格)
  • レスキュー3 スイフトウォーターテクニシャン1(アメリカの救急救助活動資格)
  • 赤十字救急法
  • 赤十字水上安全法救助員養成資格
  • JSBA スノーボードインストラクター資格
  • PADI オープンウォーター&アドバンス、ダイビング免許
  • 小型船舶免許
  • 食品衛生管理責任者資格

伊里恒一の歴史

出身

生まれは兵庫県神戸。両親は僕が中学校に入るまで中華料理店を経営していました。
2人姉弟で姉がいます。

学生時代

いきなりですが、僕は高校を中退しています。
中学、高校と学校の勉強が大嫌いでした。
勉強をする理由がわからなかったからです。

小学校のころからとにかく遊びに夢中でした。
友達と大人一人乗り用の小さなゴムボートで、明石川の上流から淡路島まで行こうとして漂流したり。
明石の松江の海水浴場から淡路島まで泳いで行こうとしてジェットスキーのショップの人に通報されレスキューされたり。
海岸や河辺リで釣りや野宿、焚き火(火おこし)などをしていて変質者に追いかけられたりと、わりとトラブルに巻き込まれそうな遊びばかりしていました。

同級生が大学に入学したり、就職をしていた頃。
「良い大学、立派な会社に入っていないやつは負け組みだ」と言われました。
まだ二十歳になっていないのに、もう勝ち負けが決まっているのか?と強く反発を覚えました。

それと同時に「自分が社長になればいいんだ。成功できたらいいんだ。」と思いました。
勉強も嫌いで頭も良くない僕がどうしたら社長になれるのか。
そればかり考えるようになりました。

運送業時代

個人事業を始めようと思った僕は、ローンを組んで軽トラックを購入しました。
個人事業主(兼ドライバー)として、運送会社から仕事を貰いました。(赤帽のようなシステムです。)

軽トラックは大型トラックに比べて、配送できる物量は少ないものの、営業ナンバー(黒ナンバー)を個人でも簡単にとることができます。
会社から仕事は貰えていましたが、給料面ではマージンとして20%引かれてしまい、食べていくのがやっとの状態でした。

個人でも仕事を探すため、僕はスーツに着替え、100枚の名刺を持って色んな企業を回りました。
しかしそのころ不景気で仕事が無く、車両も余ってると言われ、どこの企業にも相手にされませんでした。
結局100枚の名刺が無くなるまで断り続けられたのは、精神的に辛かったことを覚えています。
情報誌に高額な費用をかけて広告を掲載してみても、年に1度依頼がくるだけでした。

ある日、お客さんから「二階にある洋服ダンスを運びたい」という事で問い合わせがありました。
二階ベランダはかなり複雑な形で、どうやってこの部屋に運んだかわからないくらいでした。
タンス自体もかなり高価なもの。傷つけるといけないので、せっかく舞い込んだ仕事でしたがお断りする事になってしまいました。
個人事業のためには、運送だけでなく引越しの仕事も一から勉強しないと駄目だと思ったきっかけでした。

引越し屋時代

引越し屋さんは儲かると知ったこともあって、さっそく創業まもない企業に入りました。
自前の軽トラックを使った仕事も別途請けることで、少しは稼ぎになっていきました。

僕は引越しの仕事をマスターするため、この会社で夜遅くまで働きました。
2ヶ月間休みが無い時期もありましたが、体力だけは自信がありました。

仕事を急げば雑になり、事故も起こりやすい。慎重にやり過ぎるのもなかなか仕事が終わらないし逆にだれてしまう。
仕事が出来る人の良い点を習うことによって、どうしたら効率よく人を動かすことができるか、時間を短縮できるかを工夫して試行していきました。

働きだして一年ほど経った頃、ようやく大きな引越しのリーダーを務めさせてもらえるようになりました。
通常大型トラックの引越しは1日掛けて仕事をしますが、僕の場合午前中には全て終わらせるくらいにまでになっていました。

他の作業員はいつもビックリしていましたが、僕には誰にも真似のできない、究極に早く仕事を終わらせる秘訣があったのです。
それは、現場に到着後の素早い段取りと、自分にしか出来ないうまく人を動かすテクニックをあみ出したからでした。
お客さんからも、作業が早くて丁寧だと良く言われるようになり仕事の紹介も増え、ご祝儀の月トータルも僕がたいていトップになりました。

2年半の修行を積んだ結果、専務に認められ、古い3トントラックを自由に使わせてもらえることになりました。
営業ナンバーの費用も会社が負担してくれ、それからは収入も倍増するようになりました。

この経験から、やればできるんだという実感と自信がついていきました。

1997年 社会人サークル発足

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両親はそのころ、親戚の中華料理店を手伝っていました。

いきなり勤めていた引越し会社が倒産。

運送業を辞めた僕は、親父が夢にしていた親子で中華料理店を僕が経営、厨房に立つことになりました。

しかし、お店はうまくいかず赤字ばかりが続きました。親父や従業員の生活を支えるため、僕は早朝の運送バイトも始めました。

お店は退屈だったので、毎日遊びに来てくれる常連さんを作ろうと社会人サークル ナッツベリーを始めました。

最初は自分が集めた仲間とお店でワイワイ楽しめればいいと思っていました。
毎週の飲み会が定着しだした頃、そのうち週末には野外BBQも行うようになってきました。

しかしお店の経営は良くならず、更におふくろがガンで手術をすることになり、通院の補助をすることになり、やむなくお店をたたむことにしました。

やがて当時結婚していた嫁とも離婚し、家を飛び出した僕は1カ月ほど車で生活するようになりました。

自分がどん底に落ちていることを実感しました。

高校中退した後に友達に言われた「負け組」の言葉が頭の中をぐるぐる回っていました。

かろうじて続けていたサークル運営もめんどくさく感じ始め「自分自身が楽しめないのに人を楽しまそうとすることがすごく苦痛で」何度も辞めようと考えました。

けれど仲間から「僕らの支えが無くなるから辞めないで欲しい」と真剣に説得されました。

自分が面白いと思った企画をすれば、どんどんメンバーさんが集まってきて、笑顔になって楽しんで帰っていく。
そんなサークル活動が僕自身の支えにもなっていたのを思い出しました。

イベントから帰ったあと「すごく楽しかった。ありがとう」といったメールを参加者全員からもらったこともありました。
やっぱり、みんなが心から楽しんでくれるって素晴らしいことだなと思いました。

2000年 人を笑顔にする仕事を職業にする

苦痛の日々を何とか抜け出したいと思い、学歴の無く頭の悪い僕にでもできる、最も得意なことを深く考え始めました。

小学生から中学生のころ、他の友達が誰も考えないような遊びを、いつも僕が考え実行し、みんなと夢中になって遊んでいたのを思いだしました。

例えば、公園の滑り台を四角いゴミのコンテナで滑ってみる遊び。盛られた土の山をチャリンコでジャンプする遊び。木から木へと折れなさそうな枝を探して移動していく遊び。台風時にリール付きの釣竿の糸の先にビニール袋をつけて空に飛ばす遊び。その他、今思えばニュースになるんじゃないかと思うような危ない遊びもよくやっていました。

けれど、「これメッチャ楽しそう!!」と思った瞬間、僕の考えた遊びをしている友達の笑顔が浮かんでくるんです。

これだ!!

自分は、面白そうのインスピレーションを感じると同時に楽しませたいと思う欲求が生まれてくるんです。

僕が最も得意とするのは、アウトドアで人を楽しませる遊びを考えることでした。

そこで僕は、みんなを笑顔にする仕事を職業にすることを決意しました。

2004年 ラフティング会社設立

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ラフティングとの出会い

子供の頃はいつ怪我をしてもおかしくないような、ギリギリの遊びをしていました。
だから、いつも生傷絶えない身体でした。

これまで、世間一般の人たちがお金を払ってする遊びは、安全すぎて物足りないと感じ、自分たちが自然のフィールドを使って遊ぶ方がスリルがあって面白いと思っていました。

僕らは遊びの中で危ないと感じた瞬間、危険を察知してリカバリーが出来るようになっていました。

なので、どんどん遊びのレベルも上がっていました。

だけど普段運動していない友達や女友達は、怪我をするのを恐れて僕らがする遊び(木登りや川を飛び越えるなどの遊び)はいつも観ているだけでした。
何とかこの子たちも僕らと同じ土俵で遊べないかと考えていた時に出会えたのがラフティングでした。

一般の企業が行っている四国のラフティングツアー(上級者コース)にサークルの仲間と初めて参加した時でした。

その日は、前日の雨で川は増水していました。

ラフティングガイドは片言の日本語を喋る欧米人でした。セーフティートークは日本人の女性が担当していて、危険時の対処方法などは理解できたのですが、普段刺激を求めている僕は一番危険な激流で友達と落とし合いを始めてしまいました。

結果僕だけがボートから落ち、渦に巻かれ、水中では自分でコントロールできなくなり、一瞬死ぬかと思いました。

しばらく川を流された後にガイドにレスキューされました。

その後ガイドに頭を叩かれ叱られましたが、僕の中で初めて、「ガイドという職業」は凄いと思った瞬間でした。

ガイドがいなければ、僕は死んでいたかもしれないと思いました。

僕がガイドになればもっとすごい激流も、運動音痴な友達や女の子も連れていけるんだと思い、逆にアドレナリンが放出してきました。

サークルはアウトドアを中心に活動していましたが、僕はより「アウトドアを極めたい」と思い始め、
その中でもまずラフティングガイドに興味を持ち、2001年からラフティング会社に弟子入りしトレーニングを始めました。
運送の仕事を続けながら、時間を作って必ず川に出るようにし、誰よりも多く川を下るように努めました。

ここでも、やればできるという自信を持っていたので、粘り強くチャレンジできたのだと思います。

そしてリバーガイドとして上司にも認められ、2004年に独立、ラフティング会社アウトドアクラブNutsを設立することができました。
はじめはラフティングボート1艇から始めた小さな会社でしたが、現在は100名位の団体様まで受けることができる規模になってきました。

アウトドアクラブ ナッツ(ラフティング会社)http://hodugawa.com/

2006年 サークルで世界一周

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日本のアウトドアはもちろん、今度は世界を旅し、世界のアウトドアを知りたいと思い、第1回目のみんなで世界一周計画をたてました。
僕は英語は全くしゃべれないし、個人旅行の経験も無い、資金は500円玉で貯めた100万円という状況でした。
総勢16名の仲間が参加し、半年間のバックパッカー旅行のすえ無事日本に帰って来ました。

みんなで世界一周計画 第1弾 エピソードまとめ

2011年 東日本大震災 支援活動

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2011年3月11日に東日本大震災が起こった時は、サークルの仲間と支援活動を行いました。
みんなで東北に向かい、現地に物資を運んだり、炊き出しを行ったり、お家の中に入り込んだ泥をかき出したりしました。
瓦礫だらけの中で生活しているおじいちゃん、おばあちゃん達を、毎日ナッツベリーのマイクロバスで温泉に連れて行ったりもしました。
東北までいけない人は活動資金を貯めるために、お花見などの野外パーティーで、ステッカーやヒマワリの種を販売したり、フリーマーケットも行ったりしました。

東日本大震災 支援活動レポート

2016年 熊本地震 支援活動

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東日本大震災時の支援活動の仲間が活動開始したことにも背中を押され、まずは僕が単独で熊本入りをし炊き出しをしました。
その後、大阪に戻り、現地のボランティア事務所と協力し、支援ボランティアバスツアーを企画しました。(NPO法人での募集記事
炊き出しや瓦礫撤去など計4回の支援活動を行いました。

熊本地震 支援活動レポート

いつも楽しいことばかり考えて遊んでいるサークルですが、こういう時こそ仲間の力を合わせて活動する時だと思います。
このように今後も社会に貢献できるサークルを目指していきたいです。

2016年 再びサークルで世界一周

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現在、第2回目の世界一周計画を実行中です。
大自然や文化遺産巡りはもちろんのこと、その地で暮らす人々との出会いや交流も積極的に行い、ラフティングやトレッキングなどの世界のアウトドアにもチャレンジしていく予定です。

みんなで世界一周計画 第2弾 記事はこちら

メディア露出

テレビチャンピオン「イカダ川下り王決定戦」優勝

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チャレンジ精神旺盛な僕は2006年度にテレビチャンピオン「イカダ川下り王決定戦」に出場しました。
競技内容は第一ラウンド埼玉県の長瀞で障害物レース。第二ラウンド群馬県水上の激流レース。第三ラウンド荒川河口でイカダレースでした。
4名一組のチームでレースをします。
僕はもちろんラフティングガイド仲間を集めて参加し、みごと優勝しました。

世界旅行セミナー 講師出演

about_semi

「世界旅行の楽しさと仲間での旅について」
2006年に仲間で世界一周をしてきた様子をセミナーにて紹介しました。
動画でも旅の様子を感じていただき、「仲間で行く旅の魅力とハプニング」についてお話させていただきました。

講演場所:大阪産業創造館
詳細:http://www.sekatabi.com/seminar/

世界一周 本の出版

2006年に行った世界一周の仲間の旅のエピソードを書籍にする予定でした。
実際にイカロス出版様で担当の方と書籍化に向けて動いていましたが、諸事情でお蔵入りに。

エピソードはサイトに掲載していますので、是非見てくださいね。
みんなで世界一周計画 第1弾 エピソードまとめ

ラジオ番組「ソラトニワ梅田」出演

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ラジオ番組「ソラトニワ梅田」でアウトドアサークルナッツベリーのイベントの内容や、今後の方向性などサークルの魅力について語ってきました。
阪急百貨店うめだ本店9階・祝祭広場にあるサテライトスタジオにて収録。
ラジオ詳細はこちら

ラジオパーソナリティーとして活動

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アウトドアインストラクターで、世界一周も経験して来た僕が「世界の旅情報」や「世界のアウトドア事情」についてお話しします。
毎回サークルメンバーさんをゲストとしてお迎えし、アウトドアライフについて語ったり面白トークをしていく番組です。

ラジオ詳細はこちら

学んでいることや趣味

世界の川で修行中

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2006年の世界一周では最も過酷な川で激流下りをしたり、1000メートルの高さから崖を降りるアブセイリングというアクティビティに挑戦したり、世界のアウトドアスポーツにも挑戦しながら旅を続けてきました。
2009年からのオフシーズンはニュージーランド、ネパールなどの激流の川でトレーニングを行っています。
現在は海外にてラフティング以外のアクティビティーにも挑戦し研究するようにしています。

DJ

about_dj

洋楽・クラブミュージックを好きなこともあり、曲をミックスさせたり、音楽を作ろうとDJの勉強もしています。
主にサークルのナイトイベントを盛り上げるために活用しています。

お酒・飲み会

about_nomikai

仲間と交流しながらお酒を飲むのが好きです。
飲み会イベントを盛り上げるため、カクテル作りも学びました。

僕は中華料理屋の経験があるので、料理を作ったりもします。
実際に大阪飲み会でも皆さんに振舞っていました。

2018年 株式会社 Zedd 設立

事業を拡大するため、株式会社を設立しました。

2019年 「リバーサイドグランピングナッツ」運営開始

僕らがフィールドにしている滋賀県の山奥にものすごく奇麗な清流が流れています。

その川の畔に自然を満喫できる宿泊施設を作りたいと思いました。ここに来れば手ぶらで食事や宿泊もできてて、自然を満喫できるアクティビィーもその場でできるそんなキャンプ施設を作ることが出来ました。

今後、この自然のフィールドを使って遊べ、皆が笑顔で楽しめるディズニーランドのような施設を作っていきたいと思っています。

 

これからの目標

社会人サークルとして活動してきたナッツベリー。
これまで「世界一周飲み会」と題して、月に1回程度飲み会を開いてきましたが、海外に興味があるメンバーが揃うので毎回大変盛り上がっていました。

これからも世界のアウトドアや旅について興味があるメンバーを募って、みなさんに友達作りの場を提供していきたいです。
また、そんな仲間たちとの交流「飲み会・BBQ、国内でのアウトドアイベント(旅行やキャンプ、ラフティングなどのアクティビティ)」を開催し、最終的には「海外ツアー、世界一周」を楽しめる仲間作りをしていきたいです。

「みんなで世界一周計画」のサイトはそんな仲間作りと、役立つ海外情報発信の場として成長させていければと思っています。

僕は新しいことにどんどんチャレンジすることが人生で一番楽しいと思っているので、これからも仲間と面白いことを探してチャレンジしていきたいと思います。

ご連絡待ってます

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少しでも興味がある方とご縁が出来たらうれしいです。

伊里恒一